凡コラム

レオナルド・ダビンチの銀筆技法について

もう30年も前になりますが、京都で日本画の勉強や制作に励んでいた頃のまだ若かりし2526歳の頃だったと思い返します。ある美術学校の先生S氏に

「君は絵の具の技法について詳しいので、もう数百年の間途絶えているのだが、レオナルド・ダビンチが銀筆でデッサンをしている。普通の鉛筆だと時が過ぎれば薄くはなっても濃くはならないが、銀で描いたダビンチの線は腐蝕により時や年数が経つほどに濃くなることを想定して描かれている、そのレオナルド・ダビンチの銀筆技法を何とか復活させたいので、研究してほしい。」

と言われ、親しいS氏の頼みとあっては何とかやってみようかと思い、早速銀線を買いに行こうと電話帳をめくりお店を探した。確か当時は自転車で行ったように思う。はっきりとは覚えてはいないのだが、四条か五条烏丸周辺だったのか? 記憶は定かではないが、確か京都の中心の方だったと思う。今そのお店があるのかどうかも解らないのだが、当時行ってみると鉄、真鋳、銅線など太さも色々のいろんな種類が数多く掛けてあり、「銀線がほしい」と言うと、「どのくらい?」と針金を手に主人が40cmくらいの輪の巻きを手にしたので思わず、「ひと巻きぐらいで…」と聞くとたいそう高い値段で、アッと思わず鉄の針金のように安くはなく銀だったのだと気づき、「す、少し半分、いや、20センチほどで…」といって買ったように思う。何せお金のない、貧しい絵描きのたまごの時代である。

そんなこんなで手にいれた銀線、いろんなものに書いてみた。紙にかけばへこむだけで強くすれば破れるのみ。石はもちろん鉄など金属や、ありとあらゆる物に試してみた。ある時は電柱であったり、バス停の欄干や鉄板、固い木、陶磁器などなど手当たりしだい試してみたが、何に書いても書けそうな気配もなく、本当にダビンチはこれでデッサンをしたのだろうか?と不思議に思えてきた。

実際その書いたものを見てもないので、暗中模索のような状態であった。それでも銀線は持ち続け書き続けていたが、一向に描けるものが見つかる気配なしの日々が続いた。

そんなある日、われわれ絵描き仲間の飲み友達で、時々新鮮で獲れたての活きたイセエビや鮑を目の前で刺身にしてくれる、三条京阪近くで赤提灯の下がった『伏見屋』へ行くのが楽しみであった。最高の味の贅沢ではあるが安いので、狭い店のカウンターは絶えず満員で立って待つのも常であった。当時はハイボールが人気の頃であったが、私は当時からビール党であった。そこで食って喋って飲んで最後には赤出しの味噌汁で上がるのだが、その味噌汁に銀筆技法のヒントが隠されていたのです。あれほど何に描いても描けなかった銀筆がこの味噌汁で解決したのです。

毎回お店で飲んだ後の締めは赤だしの味噌汁と決めていて、その汁には大きなハマグリが入っているのですが、食べ終えたあとその貝殻の白い部分に例の銀筆で描いてみると、どうした事か描けたのです。その時の感激は今も忘れない、あれほどいろんなものに描いても描けなかったものが、いとも簡単に描けたのです。これだ、これだと喜んだもんです。

日本画に使う胡粉(白色)は蛤や牡蠣の粉である。これだと!次の日、早速に紙に胡粉を引きその上に描いたら描けました。紙にダビンチのそれのように描けたのです。鉛筆のように濃くは描けませんでしたが、薄いねずみ色に表現できました。それが年月の経つうちに化学変化(腐食)して濃くなっていく、それをレオナルド•ダビンチは計算していたのであろうかと思います 。

↓神戸新聞に掲載されていた記事です。↓  

【女性素描画 ダビンチ作】 ANSA通信は十日、ペネチアの実業家が所蔵していた素描画を赤外線を利用して鑑定した結果、これまで知られていなかったレオナルド・ダビンチ(14521519年)の作品と分かったと伝えた。
作品は十五日、ペネチアで関係者に公開され、近日中に一般展示される。いかつい風ぼうの年老いた女性の横顔を描いた作品で、1970年代に実業家リガプエ氏が古美術商から「ダビンチの弟子が描いた可能性がある」と言われて購入。このほど研究者が赤外線カメラで調べたところ、銀を使って描いた下絵が現れ、ダビンチ作と断定された。十八世紀の画家が手を加えていたことも分かった。
ベネチアの美術館の専門家ジャンドメニコ・ロマネッリ氏は「先端技術による重大な発見だ」と話している。

 

                                   舟 丘 恵 凡